南瀛総爺芸文園(ナンインツォンユェ)

 「南瀛総爺芸文園」の前身は「麻豆総爺糖工場」です。明治39年(1906年)12 月、日本三菱会社の渋沢栄一氏、武田守正氏などが「明治製糖株式会社」を提唱し、翌年、麻豆製糖工場を購買しました。その当時製糖工場は日本に3か所、上海に一ヶ所、台湾には総爺以外に蕭壠、烏樹林、南靖、蒜頭、溪湖と南投の6か所にあました。

 

 明治43年(1910年)、台湾総統府が各地製糖工場のさとうきび原料区を調整、砂糖の需要拡大にともない蕭壠製糖工場に、総爺が新しい工場として編入され、安田昌氏が監督として就任しました。9月から工事が始まり、翌年の6月までの僅か10か月で、事務所、修理工場、駐車場、郵便局、医務所、招待所、宿舎などの建物が76軒でき、明治製糖株式会社の本部がここに設置されました。

 

 明治44年(1911年)4月からは、各種設備の設置が始まり、12月には、蒸発室、結晶室、砂糖室、気缶室、搾り室などの各種機械 のすべてが完成、その翌年(1912年)1月から製糖が始まりました。

 

 太平洋戦争終結後(1945年)に台湾省長官公署から台湾に、日本人が経営した各製糖工場を譲渡されました。1946年、明治製糖株式会社を「台湾糖業公司第三区支社」に 改名、本部は麻豆総爺糖場に置かれました。民国39年(1950年)7月に、支社を取り消し、「総爺糖場」に変更し、蕭壠、玉井、灣裡、三崁店、車路 墘 などの製糖工場も管理下になりました。

 

 民国47年(1958年)7月には「麻佳総場」となり総爺糖場と蕭壠糖場を合併し、さらに民国63年(1974年)には総場を取り消し、「麻豆総爺糖場」となりました。その後、世界の砂糖価格が暴落し、製糖コスト高を原因に、台湾では生産中止の政策がとられました。麻豆総爺糖場も民国 82年(1993年)に閉業となり、民国87年(1998年)煙突が取り除かれました。

 

 「3 級古跡」に認定された麻豆総爺糖場の総面積は2.16ヘクタールにおよび、赤煉瓦事務所、木造案内所、赤煉瓦食堂、木造社長宿舎、日本庭園が数々の老木の間に点在しています。民国90年(2001年)11月4日に「ナンイン総爺文化園」を成立して現在に至っています。


■見どころ

画像準備中 赤煉瓦事務所
民国元年に建てられ麻豆総爺糖場の事務所は2階建の赤煉瓦造りです。本部の事務所として使われ、正方形の立派な外観の建造物ですが、装飾はむし ろ簡素であり現在は芸術作品の展覧会場になっています。
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社長邸宅 
木造建ての社長邸宅は、高くて広い建物です。庭はニ千坪余りあり、花や草木がたくさん植えられ、さらに南側には日本庭園もある、立派な住まいです。以前は、一般人は立ち入り禁止でした。

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木造案内所

元々は社員クラブであり、京風の木造2階建てです。その広い純和風の庭は、仕事の合間に心からくつろげる空間をつくりだすために設計されたものです。赤煉瓦事務所に劣らず、価値の高い建造物です。
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台糖麻348号の番号がつけたこの蒸気機関車は、1948年に造られ、さとうきびを運搬して いました。
狛犬 「そっぽ獅子」(神社石獅子) 
日本神社の跡地に建設された旧総爺小学校 の正門から入ると目の前にそっぽを向いた獅子が見えます。当時の神社には天照大神がまつられ、石獅子が二頭そなえられいました。敗戦とともに神社は取り壊されましたが、現地住民の手で獅子は守られました。学校建設の際に再び持ち出された獅子は間違って”反対向き”に設置され、「そっぽ獅子」が誕生しました。

■道案内

南瀛総爺芸文園地図
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